今月の特集

遠いようで近い!? トルコと日本の深イイ話

2015年12月

「親日国」の代表格、トルコ

「世界でいちばん好きな国は?」という世論調査では、いつも日本が1位になるというトルコ。「親日国」「トルコ」という検索ワードを入れれば、グーグルなど検索サイトで数えきれないほどの記事が表示されるように、トルコの親日ぶりは良く知られています。トルコは「親日国」の代表格といえるでしょう。

一方、「どうしてトルコは親日国なんだろう?」という素朴な疑問も。「そんなに好きになってもらえる理由は何?」と不思議に思われませんか?

遠いようで近い。近いようで遠い。そんなトルコと日本との深い絆について、簡単にまとめてみたいと思います。

トルコと日本の「国交」

そもそもトルコと日本は、いつから「国交」があったのでしょうか。実は、正式に国交を結んでからの年月は、さほど長くはありません。

1923年(大正12年)、日本を含む第一次世界大戦の連合国とトルコとの間でローザンヌ条約が調印されました。この条約により、トルコ共和国はオスマン帝国に代わる主権国家として国際的に認知され、翌1924年8月6日、同条約の発効をもって、日本とトルコは国交を樹立しました。

つまり、トルコと日本の「国交」は1924年から始まり、2015年現在で91年のお付き合いということになります。古くから交流のある中国などアジア諸国や、オランダ、イギリス、ポルトガル、アメリカなどの国々に比べると、トルコと日本はまだ1世紀に満たない「浅いお付き合い」といえます。

しかし、そんな両国の関係を深める「事件」が、明治から昭和にかけて起こりました。

有名な「エルトゥールル号遭難事件」とイラン・イラク戦争真っただ中の「戦火の下のトルコ機派遣」です。

エルトゥールル号遭難事件

現在のトルコ共和国が成立する前の明治時代。1887年に小松宮彰仁殿下と同妃殿下がオスマン帝国を訪問し、皇帝アブドゥル・ハミト2世に謁見しました。

これに対する答礼としてオスマン・パシャ提督率いる総勢650名の使節団を乗せた軍艦「エルトゥールル号」が日本に派遣されました。1890年(明治23年)6月、同使節団は横浜港に到着、オスマン提督は明治天皇に拝謁し、オスマン帝国の最高勲章を奉呈しました。

同年9月、オスマン帝国への帰路に就いた「エルトゥールル号」を台風が襲います。和歌山県紀州沖で岩礁に激突、座礁した「エルトゥールル号」は水蒸気爆発を起こして約1時間半後に沈没してしまいました。

600名以上の乗組員が海上に投げ出され、オスマン提督以下乗組員587名が死亡するという大惨事に。一方、数少ない生存者は近くの灯台に助けを求め、通報を受けた大島村(現在の串本町)の住民がこぞって救助と介抱に当たった結果、69名の乗組員が救出されました。台風シーズンで漁業もままならず、食料の蓄えも僅かだった村民たちは、自らの浴衣などの衣類、そして非常用のニワトリなどを進んで提供するなど、献身的な介護を行いました。この報を聞いた明治天皇は大いに心を痛め、政府に対し可能な限りの援助を行うよう指示。生存者は、後に日本海軍の巡洋艦「金剛」及び「比叡」により丁重にオスマン帝国に送還されました。

民間からも多数の義援金が集まる中、「エルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義援金」キャンペーンを行った山田寅次郎は、事件の翌々年に、集まった義援金を携えてオスマン帝国に向かいました。

熱烈な歓迎を受けた山田は皇帝アブドゥル・ハミト2世からオスマン帝国に留まることを要請され、これを受諾しました。日本との国交が樹立されない中で、士官学校で日本語や日本のことを教えたり、日本政府高官のオスマン帝国訪問を助けるなど、官民の交流に尽力しました。この士官学校には、後のトルコ共和国の初代大統領となったムスタファ・ケマルもいたとされています。

その後、海難現場の和歌山県串本町には、「エルトゥールル号殉難将士慰霊碑」が建立され、毎年慰霊式典が開催されています。また、串本町の姉妹都市であるトルコのメルシン市でも、串本町のものと同じ慰霊碑が建立されています。

2008年6月、即位の礼を除き、二国間の公式訪問としては初のトルコ元首の訪日となるギュル大統領の訪日が実現し、ギュル大統領は串本町で行われた慰霊式典に参加しました。

戦火の下のトルコ機派遣

「エルトゥールル号遭難事件」から95年もの年月が流れた1985年に、日本は思わぬ形でトルコからの「恩返し」を受けることとなりました。

1980年9月から1988年8月まで、約8年間に渡り続いた「イラン・イラク戦争」のさなか、イラクのサダム・フセイン大統領(当時)は1985年3月に「48時間後をタイムリミットとして、イラン上空を飛ぶ航空機は無差別に撃墜する」と布告しました。

世界各国は救援機を差し向けて自国民を避難させましたが、日本は対応が遅れ、215名の日本人が空港に取り残されてしまいました。在イラン日本大使館は手を尽くして救援機を派遣した各国と交渉したものの、自国民救出に手一杯との理由で協力を拒絶されました。

万策尽きた在イラン日本大使館は、野村豊在イラン特命全権大使と日頃から親交のあった、イスメット・ビルセル在イラントルコ特命全権大使との話し合いに一縷の望みを託しました。野村大使が救援を要請すると、イスメット・ビルセル大使はこう告げたそうです。「あの時の恩を返す時が来た」と。トルコ政府は「エルトゥールル号遭難事件」で受けた日本人への恩義を忘れてはいませんでした。

伊藤忠商事イスタンブール支店長だった森永氏からのトルコ・オザル首相(当時)への依頼もあり、トルコ政府はテヘランのメヘラバード空港に2機のトルコ航空機を派遣。1機目には日本人198人が、2機目には1機目に乗り切れなかった日本人17人と、本国からの救援を待っていたトルコ人が乗り込みました。午後7時半、2機のトルコ航空機はイランを飛び立ちました。3月19日午後8時半のタイムリミットまで、わずか1時間を残すのみとなっていました。

無事にイラン国境を超えた際、機長は機内放送で「ようこそトルコへ」とアナウンスし、搭乗者全員の拍手喝采を浴びたそうです。

当時、イランには沢山のトルコ国民が在留しており、トルコへの避難を急いでいました。しかし、トルコ政府は陸路で脱出できる自国民に優先して日本人の救出を行ってくれました。救援機に乗れなかったトルコ人約500名は陸路自動車でイランを脱出したそうです。イラン・イラク戦争で自らも命の危険にさらされたトルコ国民を後回しにして、日本人を優先的に救出することに、トルコの人々は誰も異議を唱えませんでした。

自ら志願して、救援機の第1機長に就いたオルハン・スヨルジュさんは、2006年に旭日小綬章を受章、2013年2月に逝去されました。

トルコと日本の「明日に架ける橋」… 世界一深い海底トンネル

2011年2月、欧州とアジアを隔てるボスポラス海峡に、海峡部1.4キロ、陸上部12.2キロ、総延長13.6キロの地下鉄トンネルが開通しました。アジアと欧州を隔てる交通の要であるボスポラス海峡の地下を貫くこのトンネルは、オスマン帝国時代の1860年に設計図が描かれていたものの、政治的・技術的理由によって実現されず、トルコ国内では「トルコ150年の夢」と呼ばれていました。

この海峡には2本の道路橋やフェリーなどの船舶があるものの、人口増加などによる交通量の増大で、トルコの主要大都市であるイスタンブールのさらなる発展の障害となっていました。そうした「ボトルネック(障害)」を解消するために全長76キロの鉄道整備プロジェクト「マルマライ」(マルマラは大陸間の内海の名前、ライはトルコ語で鉄道の意味)が策定され、この海底トンネルはプロジェクトの一環として2004年にトルコと日本との合弁で着工されました。

トンネル技術では世界的に定評のある日本のゼネコンが、海峡部の建設を担当しました。しかし、ボスポラス海峡は海流速(潮の速さ)が時速9キロと世界有数、しかも最深部は海面下60メートルと「世界一深い海底トンネル」となるため工事は難航。建設途中に少なくとも8000年前のものとみられる遺跡にぶつかるなどしたため、工期は4年ほど延びました。

トルコ共和国建国から90周年に当たる2013年10月29日、ついに地下鉄が開業。開業記念・開通式典には日本から安倍首相も出席しました。フェリーで30分掛かっていた海峡間の移動は4分に短縮、地下鉄は1日150万人を運ぶ市民の足となり、イスタンブールの交通事情に劇的な変化を与えました。日中は乗客用、夜間は貨物列車が走行し、欧州と中東、アジアを結ぶ物流の動脈となることが期待されています。

トンネル開通式典に出席した安倍首相は「ボスポラスを結ぶ鉄道が、日本とトルコの友情のシンボルとなり、両国関係が発展することを期待する」と述べました。

「エルトゥールル号遭難事件」に始まり、「戦火の下のトルコ機派遣」を経て、「世界一深い海底トンネル」建設と、トルコと日本の繋がりは着実に深まっています。「21世紀のシルクロード計画」とも呼ばれる「マルマライ」は、両国の未来を繋ぐ「明日に架ける橋」として、今後ますます、その存在感を高めていくことでしょう。

(市場調査部 シニアアナリスト 山岸永幸)

資産運用としてのFXを身につける!
M2J FX アカデミア

Page Top